アナビアン ギャラリー ニューヨークでの展開
1979年のイランイスラム革命で遺跡発掘が禁じられ、西アジア考古学団は大規模な発掘プロジェクトに出かけていくことがなくなり、日本とイランの文化交流の糸が次第に細くなっていった。店主ラヒム・アナビアンは、それまでに収集したペルシャ秘宝コレクションを守るために命がけでアメリカへ避難させた。
今や織れなくなったペルシャのガジャール期(明治期)とパーレビ期(昭和期)の2000点に及ぶビンテージのペルシャ絨毯や多くの美術館級の考古学的宝物も管理・鑑定・販売されている。
遊牧民が織った絨毯を広げる(ラヒム・アナビアンの娘)プーリー・アナビアン。一枚一枚の絨毯に物語が織り込まれている。
ビンテージ絨毯は、アメリカで大人気。絨毯の文様やシンボルの云われから、ストーリーを語れる生き証人。
不景変動の波が激しいニューヨークで、絨毯や古美術店が閉店するなか、ペルシャ文化を伝え続けている。ビンテージ絨毯は、アメリカで大人気。老舗の住所は、車に書かれている。ANAVIAN ANTIQUES & RUGS。NY NY (212)888-1111
近くのマディソン・アベニューでは、毎年イランの自由を求めるパレードが行われる。
テヘランで建設が進められていたペルシャ錦美術館も政変でプロジェクトが頓挫し、80歳を目前に老舗古美術店を自由の国ニューヨークへ移転させた。
ラヒム・アナビアンは晩年、マンハッタンで再建した骨董店に毎日足を運びつづけた。
研究の傍らイラン中に散逸していた錦を集めはじめ、テヘランで展示会を開き、ペルシャ錦の価値を取り戻す先駆者としてブームを起こした。以後、ペルシャ美術研究家や歴史学者の関心の的になった。当時、王室の美術顧問を務めていたラヒム・アナビアンは、イランの遺跡調査に来ていた日本の考古学者の方達と交流を深め、テヘランで建設が進められていたペルシャ錦美術館も政変でプロジェクトが頓挫した。
ペルシャ錦が消滅する運命にあった時、ラヒムはパーレビー時代の女王とペルシャ織物保存館の設立に着手していたが志半ばで政変に遭い、錦のコレクションは、ニューヨーク、ロンドン、日本へ送り込んだ。1951年からラヒムは、テヘランで日本のオリエント学者と結ばれた縁を辿り、日本各地の主流の博物館に多くのペルシャの出土品を納めた。1979年、イランのイスラム革命事前まで世界一のペルシャ錦の蒐集を作り上げ、そのうちの2000点は、鳥取のアジア博物館を終焉の地、米子のゆったりした時の流れのなか、安住させた。97歳の最後の日まで情熱を傾け、ペルシャ錦の真価を世界規模で紹介し、ペルシャの文化遺産を後世に贈った。
80歳を目前にテヘランの老舗古美術店を自由の国ニューヨークへ移転させ、92歳でアメリカ国籍を取得。