ラヒム・アナビアンはテヘランで半世紀かけて、何千点ものペルシャ土器・陶器・ガラス・織物を蒐集し、テヘランの考古学博物館と日本の主要な博物館・美術館に収め、文化交流の基盤を築いた。
イラン王国の開けた時代、昭和の日本と共に近代化が進み、経済成長が進み、パーレビ国王がイランのの発掘事業に力を入れ、その自由のなかで世界中で多くの考古学者によるペルシャ文明の研究が出版物にされた。
紀元前からアクセサリーに使われていた瑪瑙やラピス等で出来たビーズを蒐集し、新聞でイランのビーズ王と紹介された。
それは1951年に開店したテヘランの古美術店で、パーレビ国王の美術顧問ラヒム・アナビアンと日本の考古学者の交流から始まった。
テヘランの銀座と言われるフェルドウスィー通り「ANAVIAN 250 ]の古美術店があり、そこは欧米と日本の考古学者や作家のロマンを求めて立ち寄り、ペルシャの秘宝のことについて見識を深めた。
ラヒム・アナビアンが経営していた老舗では新石器時代の素焼土器からシルクロードの交易で流行した幻の青釉陶器までそろい、学者の遊園地のようだった。
イラン各地で正倉院御物とそっくりの円形切子白瑠璃碗や鶏頭水差しなどが次々と発掘され、考古学調査団は驚きの連続。オリエントブームが最高潮に達した。テヘランの目抜き通りにある老舗「フェルドウスィー通り・アナビアン 250」が学者のたまり場になっていた。近鉄百貨店上六支店の部長もイランに古美術を求めてきた。大阪の百貨店で近鉄百貨店の部長の計らいで大阪上六の近鉄百貨店で関西初のペルシャ古美術ギャラリーを開いた。前に立っているのは、(写真の真中)2代目のプーリー・アナビアン、(右側)主人のニッサン・アナビアン(左側)3代目ダリア・アナビアン。
イランきってのペルシャ美術の老舗として知られ、コレクションは質・量ともにイラン国立美術館をしのぐほど…」と紹介された。当時、多くの古美術収集家が百貨店に集まった。
日本の考古学者がイラン北部ギーラーン地方を発掘調査に訪れ、正倉院の宝物である白瑠璃碗と同じようなワイングラスを発掘し、その感動を日本に持ち帰り、ササン朝ペルシャと飛鳥・奈良時代の日本との交流が1300年振りに復活した。
当時、西アジア考古学の学者がイランに発掘調査に行き、出土品の研究書を多く出版したことで関心が高まり、ペルシャ古陶器の収集家が百貨店に集まるようになった。
アナビアン ギャラリー 日本各地での展開
大阪上本町の近鉄百貨店「アナビアン・ギャラリー」の2号店として、岐阜支店を開設した。ペルシャ陶器の失われた釉の最高技術を再現させた人間国宝、加藤卓夫氏がテープカットを行った。
シルクロードの黄金時代に陶器の技術が最高峰に達した時代を取り戻すように美しい三彩や瑠璃色の釉薬で名作を世に送り続けた。
アナビアン・コレクションのペルシャブルーの陶器からインスピレーションを受けた。
ペルシャ美術工芸品、「アナビアン・ギャラリー」は、テヘラン、テルアビブ、ニューヨーク、テルア・ビブ、大阪上本町近鉄百貨店、岐阜近鉄百貨店、銀座松屋百貨店、神戸そごう百貨店、都ホテル大阪までチェーン店が広がった。
日本とペルシャの深い歴史的関わりから、ペルシャ絨毯も一役を担っている。唐草模様など絨毯の紋様は日本の芸術の一部にも受け継がれいる。都大路を彩る京都祇園祭の2台の鉾の飾り付けにペルシャ絨毯が使われた。昭和57年に「長刀鉾」と「放下鉾」の鉾飾りの取替え時期に、アナビアン・コレクションからペルシャ絨毯が納品された。
京都小泉が古代ペルシャ錦の柄を和装にデザイン。「アナビアン・コレクション」から伝統的な色彩と柄が「アナビアン」ブランドとして採用され、プーリー・アナビアンがファッション・アドバイザーとなる。
ヨーロッパのファッション界でも、オシャレの原点になったのがペルシャ錦。19世紀のヨーロッパ貴族はペルシャから送られた錦をスカーフ、ショール、肩掛けとして着飾った。
日本でも7世紀、8世紀奈良時代にシルクロードを通って伝ったモーチーフは、着物の柄の随所に見出すことができる。その文様は時代を経て繰り返し流行し、ブランド化し、京