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◆Anavian History

序章



ペルシャは今のイランにあります。7000年の歴史を誇り、その長い歴史が他の民族の文化に与えた影響の大きさは計り知れません。
日本との関わりも非常に重要なものがあり、奈良正倉院の御物のなかにシルクロードを仲立ちとしたペルシャと日本の交流の歴史は感動に値します。世界の貴重な文化財のなかでも日本の正倉院の如く倉の中で伝世品として保存された所はありません。その中の一つにペルシャのカット・ガラスの碗(約1500年前の円形切子装飾瑠璃碗)があったことは日本の教科書に載るほどです。
日本の考古学者が1950年代イランを訪れ始めたころ、出土品で銀化した正倉院と同じ碗と出会い、ペルシャ美術が歴史学者や研究家たちの関心の的になりました。正倉院三彩、ペルシャ三彩、唐三彩、宋三彩などの焼き物はすべて一つの糸で繋がった姉妹関係にあると言えます。それらが中央アジアを越すシルクロードによってお互いに影響し合ったことを考える時、歴史の大ロマンに引き込まれます。

アナビアン・コレクションとは、イランの首都テヘランにおいて100年以上続いた古美術、ペルシャ絨毯及び錦の老舗(しにせ)である。アナビアン家がペルシャ美術工芸品コレクションの保存に果たした役割は大変重要で、その蒐集品は紀元前5千年ごろからの美と伝統の歴史を示すペルシャ全土から出土した土器、青銅器、陶器金銀器、珠玉、ガラス、タイル、石彫、動物の形をした器、イスラム芸術、そして、日本の現代陶芸との繋がりも示すものもあります。特にイランの染色美術に関しては、20世紀の初頭に、製法伝授が消えてしまったペルシャ錦やカシミール毛織物のコレクションも多く、世界随一といわれています。これらは、美術としては勿論、学術的にも人類の遺産というべきものとなっています。
 このように世界的に高い評価を受けているアナビアン・コレクションを日本の皆様に紹介し、歴史的な交流を続けることを願っています。


◆Profile

ラヒム・アナビアン プロフィール



ラヒム・アナビアンは、イラン在住の頃(1970年以前)イラン第一の美術コレクター、美術商であった。ラヒム氏は、その豊かな知識と眼力により、パーレビー国王の美術顧問を務めていた。
有名な作家、井上靖、考古学者 江上波夫を初めとする日本の文化人の多くは、イラン訪問に際しては、ほとんどがラヒム・アナビアンに会い、多くの知識を得た。同時にラヒム・アナビアンのコレクションから多くのものを買いもとめている。ラヒム・アナビアンのコレクションは、日本各地の美術館や博物館が購入し、その収蔵展示品となっている。東京国立博物館、古代オリエント博物館、岡山市立美術館などがその例である。さらに、鳥取県米子市にある「アジア博物館内」ペルシャ錦館は、そのラヒム・アナビアンの「ペルシャ錦」収集品を一堂に展示している。二代目、プーリー・アナビアンと三代目ダリア・アナビアンも、ラヒム・アナビアンの教養を受け継いでペルシャ文化に造詣が深い。母娘が扱う美術工芸品は、ラヒム・アナビアンの蒐集したものが多い。


◆Museum

アジア博物館・井上靖記念館へようそ。



「ペルシャ錦館」で飾られているアナビアン・コレクションは、人類が織りなせる最も精巧な織物の蒐集です。17〜18世紀のペルシャ・カシミア・ショールは王侯貴族たちの衣料や室内調度に用いられ、アジア博物館内で大切に保存されています。この驚くべきペルシャ最高峰の織物は20世紀初頭に技術がすっかり廃れ、錦に織られてきたヒマラヤ山羊までも絶滅してしまいました。貴重な織物が次第に傷み散逸したのを惜み、その美しさの虜になったのが17歳のラヒム・アナビアン。20世紀の初頭に、製法伝授が消えてしまったペルシャ錦やカシミール毛織物の収集を手がけ、60年近くの収集の努力の結果は、世界随一です。

19世紀最後の染織人に弟子入りし、伝統的な技法を分析、普遍的価値を再認識して日々染色実験室に寵って多くの染色標本を作りました。野生の植物、昆虫、果物から得る絶妙な染料は万華鏡のように煌びやかであり、見る人の感性を掻き立てた。視力の良い乙女たちにとっては、優雅な織物の技術を学ぶことが最上の教育であり、競い合って緻密な紋様の錦を織り上げました。3人のエキスパートの少女が1枚の錦を織るために力を合わせて4〜5年かけ、芸術にかけた忍耐と時間は、月を仰ぎ見る悠久の流れです。

研究の傍らイラン中に散逸していた錦を集めはじめ、テヘランで展示会を開き、ペルシャ錦の価値を取り戻す先駆者としてブームを起こした。以後、ペルシャ美術研究家や歴史学者の関心の的になりました。当時、王室の美術顧問を務めていたラヒム・アナビアンは、イランの遺跡の調査に来ていた日本の考古学者の方達と交流を深め、嘗てシルクロードで結ばれていた「発祥の地」ペルシャ、「終焉の地」日本との文化交流の絆を結び直しました。ペルシャ錦が消滅する運命にあった時、彼はパーレビー時代の女王とペルシャ織物保存館の設立に着手していたが志半ばで政変に遭い、錦のコレクションをニューヨークへ避難させました。イランのイスラム革命前夜まで世界一のペルシャ錦の蒐集を作り上げていました。日本のオリエント学者と結ばれた縁を辿り、そのうちの2000点は、鳥取のアジア博物館を終焉の地として安住させました。97歳の最後の日まで情熱を傾け、ペルシャ錦の真価を世界規模で紹介し、ペルシャの文化遺産を後世に贈りました。褪せない色の美しさ、ファッションの根源、ペルシャの魔法の杖の一振りに惑わされてはいかがでしょう。米子のゆったりした時の流れのなか、ペルシャの煌めきに目を奪われてみませんか。