世界で作られた最も精巧な織物の一つであるペルシャ錦に関して、ほぼ全容が網羅できる書籍「ペルシャ錦」が初めて出版され、美術研究家や歴史学者の関心を集めた。著者ラヒム・アナビアンの出版記念パーティーにオリエント学博士でおられる三笠宮殿下のご来臨を仰ぎ、アナビアン・ファミリーと親しく歓談した。
(左から2番目:三笠宮殿下、その右側:著者、ラヒム・アナビアン 右端:ラヒム・アナビアンの娘、プーリー・アナビアン 左端:娘婿、ニッサン・アナビアン。前の少女:孫娘ダリア・アナビアン)
オリエント学者でおられる三笠宮殿下が「ペルシャ錦」の書籍を受納なされた。
17世紀~19世紀の「ペルシャ錦」は、イラン及びカシミールに置かれた王立工場で生産され、伝統的な染色・織物技術がさらに洗練され、王侯貴族の衣料や室内調度に用いられ、国外にも輸出されていた。しかし、最高級毛織物は、20世紀の前半に技術が完全に消滅してしまった。ペルシャ錦が次第に傷み、散逸してしまう状況をラヒム・アナビアン氏は若いときから惜しみ、60年の収集の努力の結果が書籍に凝縮された。
三笠宮殿下はオリエントの学者としても広く活躍されていた。ラヒム・アナビアンは、イラン在住の頃(1970年以前)イラン第一の美術コレクターと美術商として、ペルシャ美術の豊かな知識と眼力により、パーレビー国王の美術顧問を務めていた。二人の握手で20世紀の新たなシルクロードの絆が結ばれた。
不思議なことにペルシャ古美術のなかでもっとも洗練されたペルシャ錦は体系的な研究がなされていなかった。ペルシャ錦の価値を取り戻す先駆者としてブームを作ったラヒム・アナビアンは、一般人が持ち込んできたペルシャ錦を金に糸目をつけず、買い集めた。東京で行われた「ペルシャ錦」出版記念パーティーにイラン国立考古学博物館の館長(右端)も出席された。
作家の井上靖、考古学者の江上波夫を初めとする日本の文化人の多くは、イラン訪問に際しては、ほとんどがラヒム・アナビアンに会い、多くの知識を得た。同時にラヒム・アナビアンのコレクションから多くのものを買いもとめている。
ラヒム・アナビアンのコレクションは、日本各地の美術館や博物館が購入し、その収蔵展示品となっている。東京国立博物館、古代オリエント博物館、岡山市立美術館などがその例である。
日本の考古学者が1950年代イランを訪れ始めたころ、出土品で銀化した正倉院と同じ碗と出会い、ペルシャ美術が歴史学者や研究家たちの関心の的になった。昭和の高度経済成長期のエネルギーに乗り、株式会社三日月を創立し、古美術商・研究者として大活躍された石黒孝次郎が出版記念パーティーを主催された。
書籍「ペルシャ錦」より引用
ペルシャ錦 元多摩美術大学教授山辺知行
不思議なことにペルシャ古美術のなかでもっとも洗練されたペルシャ錦は未解明の状態。ラヒムは、テヘランで展示会を開き、ペルシャ錦の価値を取り戻す先駆者としてブームを作った。以後、ペルシャ美術は、美術研究家や歴史学者の関心の的になった。今日では、ほぼ全容が把握できるところまで到達しています。
アナビアン・コレクションは、質量ともに世界随一のものです。カシミア ショールの名において一般に知られているペルシャとインドの毛織錦は、おそらく今までに世界で作られた最も精巧な織物の一つであろう。もともとカシミアール高原地方の毛足の長い羊毛を用いて織り出された、この驚くべき織物の技術は、17世紀の初め、英主シャー・アッバースⅠ世の時代にペルシャの地にもたらされて以来、ペルシャ染色の黄金時代とも言うべきサファビー時代に大きな発展を遂げて、以来カシミール産のものと見分けられぬような見事なものがイランの地において盛んに生産されていたようである。
当時、もっぱら王侯貴族たちの衣料や、室内調度にもちいられ、または最も高価な織物として国外へも輸出されていたこの毛織ものも20世紀の前半には、その技術が完全に消滅してしまった。
この貴重なイランの織物が次第に傷んだり散逸してしまったりするのをラヒム・アナビアン氏は若いときから惜しんで60年以上に渡ってさまざまな困難を越えてその収集、保存に努めてきた。20世紀の初頭に、製法伝授が消えてしまったペルシャ錦やカシミール毛織物の収集を手がけ、60年近くの収集の努力の結果は、世界随一。こういった意味でも骨董品を扱うことを業とする、いわゆる骨董商として実に驚くことで、アナビアン氏が決して一介の商人ではなく、イランの文化財に深い愛情と造詣をもった文化人であることが知られるであろう。
著者の言葉
「願ってもないことだったが、私は70歳を越えた最後のペルシャ錦の職人から直接教えを受けることができた。彼らは、おそらく手職錦・刺繍・染色技術の最後の名人たちであった。そして彼らは、先祖代々伝えられてきた伝統技術と学術的な知識を私に教えてくれ、私の記録は厖大なものになった」著書『ペルシャ錦』の一部は、その時の記録によるものである。
ペルシャ美術の研究家、コレクターである著者、ラヒム・アナビアンは、ペルシャ錦の伝統的な技法、染色技術、羊毛などの素材をこと細かく科学的に分析した。ペルシャ錦の伝統的な技法を分析し、その普遍的価値を再認識し日々染色実験室に寵って多くの染色の標本を作った。100点以上のカラー図版で紹介、年代、産地などの関連事項も綿密に記されている。老職人が用いた羊毛の性質を研究し、これを染めるために用いた種々の植物と昆虫の科学成分について述べ、さらに絶滅に瀕した染色技術に関して話した。過去400年に渡って作成されたペルシャとカシミールの毛織錦及び刺繍の細かい部分図を100枚のカラー図版によって示すことによって、ペルシャル・ネッサンスが花ひらかせた錦を甦らせることを試みた」 彼の手許にあった記録に基づき、研究書の一冊目「ロイヤル・ペルシャ錦」の題名で昭和50年日英両国語版に出版された。
「ペルシャ錦館」で飾られているアナビアン・コレクションは、人類が織りなせる最も精巧な織物の蒐集です。17~18世紀のペルシャ・カシミア・ショールは王侯貴族たちの衣料や室内調度に用いられ、アジア博物館内で大切に保存されている。永続的に保管・展示するために日本古来の土蔵造りの蔵が博物館として建設され、そこで一般公開されるようになった。
この驚くべきペルシャ最高峰の織物は20世紀初頭に技術がすっかり廃れ、錦に織られてきたヒマラヤ山羊までも絶滅してしまいました。貴重な織物が次第に傷み散逸したのを惜み、その美しさの虜になったのが17歳のラヒム・アナビアン。20世紀の初頭に、製法伝授が消えてしまったペルシャ錦やカシミール毛織物の収集を手がけ、60年近くの収集の努力の結果は世界随一。
19世紀最後の染織人に弟子入りし、伝統的な技法を分析、普遍的価値を再認識して日々染色実験室に寵って多くの染色標本を作りました。野生の植物、昆虫、果物から得る絶妙な染料は万華鏡のように煌びやかであり、見る人の感性を掻き立てた。視力の良い乙女たちにとっては、優雅な織物の技術を学ぶことが最上の教育であり、競い合って緻密な紋様の錦を織り上げました。3人のエキスパートの少女が1枚の錦を織るために力を合わせて4~5年かけ、芸術にかけた忍耐と時間は、月を仰ぎ見る悠久の流れである。
研究の傍らイラン中に散逸していた錦を集めはじめ、テヘランで展示会を開き、ペルシャ錦の価値を取り戻す先駆者としてブームを起こした。以後、ペルシャ美術研究家や歴史学者の関心の的になった。
当時、王室の美術顧問を務めていたラヒム・アナビアンは、イランの遺跡の調査に来ていた日本の考古学者の方達と交流を深めた。
小説を執筆していた机の下のペルシャ絨毯は、テヘランのアナビアン家に敷かれていたもの。井上氏が気に入ったが、ラヒム・アナビアンは「うちのものだからこれは譲れない」と断った。しかし、井上靖氏が日本へ戻った時には、その絨毯が先に到着していた。その経緯は「絨毯とタピスリー」(読売新聞社発行)の雑誌に執筆掲載されている。
1979年のイラン・イスラム革命でペルシャブームが突然中断されラヒム・アナビアンとその息子ジョージ・アナビアンは困難を顧みず、数千の文化遺産をアメリカ・スイス・日本に避難させた。イラン最後の王国、パーレビー時代の女王とラヒム・アナビアンがペルシャ織物保存館の設立に着手する企画も日の目を見ることがなかった。半世紀以上かけて蒐集した二度と手に入らない錦を1年かけて無事にイラン国外に送り出されたことを見届け、ラヒム・アナビアン家は一人残らずアメリカへ移住した。
イランのイスラム革命の反乱から避難させたペルシャ錦の世界一大きなコレクションが鳥取県のアジア博物館で展示されていることを安心するジョージ・アナビアン。ニューヨークで古美術商を経営しながらニューヨーク大学でペルシャ美術史の教鞭を執る。2000点に上るペルシャ錦蒐集の目録と「ペルシャ錦」の共同著者
三笠宮殿下に前書きを寄稿していただき、出版記念パーティーで再び本を献上。掲載されている毛織錦は、アジア博物館・井上靖記念館の「ペルシャ錦館」にて展示。
パーティーでは、ベールを被ったプーリー・アナビアン(ラヒム・アナビアンの娘)によってペルシャ打弦楽器サントゥールが奏でられた。ご挨拶には井上靖氏の夫人とNHKシルクロードチーフディレクターの鈴木肇氏が列席した。共著者のジョージ・アナビアン(ラヒム・アナビアンの長男)がニューヨークから来館。
アナビアン家は、西アジア考古学の研究に寄与する出土品の蒐集、工芸品、書道など多岐に渡り、芸術品を通して日本とペルシャの文化交流を促進している。過去、50年の間にアナビアン・コレクションを公開する幾多の文化イベントに世界的著名なオリエント学者、三笠宮殿下が来賓としてご参加された。