それは1951年に開店したテヘランの古美術店で、パーレビ国王の美術顧問ラヒム・アナビアンと日本の考古学者の交流から始まった。
イラン各地で正倉院御物とそっくりの円形切子白瑠璃碗や鶏頭水差しなどが次々と発掘され、考古学調査団は驚きの連続。オリエントブームが最高潮に達した。テヘランの目抜き通りにある老舗「フェルドウスィー通り・アナビアン 250」が学者のたまり場になっていた。近鉄百貨店上六支店の部長もイランに古美術を求めてきた。大阪の百貨店で近鉄百貨店の部長の計らいで大阪上六の近鉄百貨店で関西初のペルシャ古美術ギャラリーを開いた。前に立っているのは、(写真の真中)2代目のプーリー・アナビアン、(右側)主人のニッサン・アナビアン(左側)3代目ダリア・アナビアン。
イランきってのペルシャ美術の老舗として知られており、コレクションは質・量ともにイラン国立美術館をしのぐほど…」と紹介された。当時、多くの収集家が百貨店に集まった。
ペルシャ美術工芸品、「アナビアン・ギャラリー」は、テヘラン、テルアビブ、ニューヨーク、テルア・ビブ、大阪上本町近鉄百貨店、岐阜近鉄百貨店、銀座松屋百貨店、神戸そごう百貨店、都ホテル大阪までチェーン店が広がった。
大阪上本町の近鉄百貨店「アナビアン・ギャラリー」の2号店として、岐阜支店を開設した。ペルシャ陶器の失われた釉の最高技術を再現させた人間国宝、加藤卓夫氏がテープカットを行った。シルクロードの黄金時代に陶器の技術が最高峰に達した時代を取り戻すように美しい三彩や瑠璃色の釉薬で名作を世に送り続けた。アナビアン・コレクションのペルシャブルーの陶器からインスピレーションを受けた。ペルシャ美術に関心が高まった1970年代、大阪の近鉄百貨店上六店でペルシャ古美術を紹介する「アナビアン・ギャラリー」が開設され、新聞では「博物館級の秘宝が陳列されている」と評判になった。
ラヒム・アナビアンは晩年、マンハッタンで再建した骨董店に毎日足を運びつづけた。1979年のイランイスラム革命で遺跡発掘が禁じられ、西アジア考古学団は大規模な発掘プロジェクトに出かけていくことがなくなり、文化交流の糸が次第に細くなっていった。ラヒム・アナビアンは、それまでに収集したペルシャ秘宝コレクションを守るために命がけでアメリカへ避難させた。
テヘランで建設が進められていたペルシャ錦美術館も政変でプロジェクトが頓挫し、80歳を目前に老舗古美術店を自由の国ニューヨークへ移転させた。
今や織れなくなったペルシャのガジャール期(明治期)とパーレビ期(昭和期)の2000点に及ぶビンテージのペルシャ絨毯や多くの美術館級の考古学的宝物も管理・鑑定・販売されている。
日本とペルシャの深い歴史的関わりから、ペルシャ絨毯も一役を担っている。唐草模様など絨毯の紋様は日本の芸術の一部にも受け継がれいる。都大路を彩る京都祇園祭の2台の鉾の飾り付けにペルシャ絨毯が使われた。昭和57年に「長刀鉾」と「放下鉾」の鉾飾りの取替え時期に、アナビアン・コレクションからペルシャ絨毯が納品された。
京都小泉が古代ペルシャ錦の柄を和装にデザイン。「アナビアン・コレクション」から伝統的な色彩と柄が「アナビアン」ブランドとして採用され、プーリー・アナビアンがファッション・アドバイザーとなる。
ヨーロッパのファッション界でも、オシャレの原点になったのがペルシャ錦。19世紀のヨーロッパ貴族はペルシャから送られた錦をスカーフ、ショール、肩掛けとして着飾った。
日本でも7世紀、8世紀奈良時代にシルクロードを通って伝ったモーチーフは、着物の柄の随所に見出すことができる。その文様は時代を経て繰り返し流行し、ブランド化し、京都の着物のなかにもよみがえった。
阿倍野近鉄百貨店のアート館で行われた江上波夫文化勲章授賞記念イベントでは、彼の考古学上の発掘品、人間国宝加藤卓夫氏の陶磁器、そしてアナビアン・コレクションが一堂に展示された。
三笠宮殿下もご来場され、巨大なペルシャ歴代王をモチーフとした絨毯に見入っていらっしゃるところ。
阿倍野近鉄百貨店のアート館で行われた江上波夫文化勲章授賞記念イベントでは、彼の考古学上の発掘品、人間国宝加藤卓夫氏の陶磁器、そしてアナビアン・コレクションが一堂に展示された。
三笠宮殿下もご来場され、ペルシャの歴代王がモチーフに織られた絨毯をご覧になられている場面。
江上波夫文化勲章授賞記念イベントにて、シルクロードに関する頂点に立つ学者たちがパネルディスカッションを行った。